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吉本隆明氏と「横超」を飲みながら『横超』を考える座談会

平成22年12月21日

横超を考える座談会 写真

座談会DVD(非売品)は、在庫がなくなりましたので、
誠に申し訳ありませんが当面は配布いたしません。(当面、製作の予定もありません。)
ご了承の程、お願いいたします。平成25年2月27日

吉本隆明さんを囲んで

聞いたひと…前川藤一、菅原則生

2010年12月21日、上野に住む前川の働きかけでわたしは二十数年ぶりで吉本さん宅を訪れた。以下に掲出した文章は、そのとき吉本さんを囲んで話し合われたものを文字に起こしたものだ。
呑んべえの前川は自身が造った酒「横超」とビールを持参していた。初めから飲みながら吉本さんと話がしたいという前川の願望が実現したかたちになった。そして、わたしにとっては、前川の計らいがなければ吉本さんに会うきっかけはついに訪れなかったかもしれない。わからない。もういちど吉本さんに会って話がしたいという願望がつねに心の何処かにあり、その思いが前川に、吉本さんに伝わったのかもしれない。かつて20代の初めに、講演する吉本さんに中野公会堂で出遭ってしまったことが必然だったとすれば、この日、吉本さん宅を訪れたのも必然だったようにおもわれる。なぜならば、訪問する途次と、吉本さん宅を辞去したあと、わたしは言いようもなく孤独だったからだ。そして、わたしのなかで、切れてしまっていた過去と現在が少しずつつながっていった。
前川は数年前から上野に移り住み、タクシー運転手をやっていた。近所ということもあり、なにかにかこつけて吉本さん宅におじゃまし、玄関先で吉本さんととりとめのない話をしていた。前川によれば当初、長女多子さんからは素姓のわからない怪しい男とみられ、敬遠されたようだ。それでも、前川のあけっぴろげで、あぶなっかしい、遠慮のない、近所の小父さんのような資質にしだいに関係はほぐれていったようだ。おそらく、吉本さん宅を訪問する多くはわたしと同じように暗く神経質なひとびとであり、それらのひとびとと前川の資質はちがっていたようにおもわれる。そのことが、吉本さん、多子さんからみるとおもしろかったのかもしれない。そして、この会話での、吉本さんと前川、吉本さんとわたしとの距離の意識のズレがわたしには興味深く、なにごとかを暗示しているようにおもわれる。この日の吉本さんのふだんぎの笑顔は、前川のその資質によるものだったとおもう。
吉本さんにお聞きしたかった主たるテーマは、1976年 6 月18日の三上治主催の品川公会堂での吉本さんの講演会をめぐってのことだった。わたしと前川は叛旗派の一員として、この講演会を妨害するために出かけて行き、壇上に上がり、吉本さんの眼前までつめよっていた。菅原記

前川
やっぱり僕らからすると全共闘っていうのは結構いろんな思い入れがあります。60年安保は子供として画面で見ていただけでしたから、左翼体験の初めては実質的には60年代後半の全共闘運動で、僕は福岡にいて高校生でしたが、強い印象が残っています。
僕は勉強をそんなにしなかったので大学も無理だと思っていたのですが、偶然青学の文学部に入りまして、叛旗派の拠点だったから、ある意味ほっとしたところもあったんですけどね。そのときに菅原くんと出会いまして、それで彼と自然に親しくなりまして。
僕なんかにとっては全共闘っていうのは開明的な感じがしたんです。あの運動の中で僕なんかが感じたのは「ああ、もうこれで共産党は終わっているな」ということ。ほとんど全国の大学では完全に共産党は効力なしなんだ、新左翼というか全共闘が握っているなというところがあったと思うんですね。
その辺のところで吉本さんの影響力があるじゃないですか、やっぱりすごかったですよね。ほとんどの全共闘の中で吉本を知らなかったら左翼ではないという読まれ方。そういう読まれ方について吉本さんとしてはどう思われますか?
吉本
はぁー、僕は、あんまりわかんない。知らないし。
前川
もう、圧倒的に読まれたんですよ。僕は高校のとき最初に吉本さんの本『共同幻想論』を読んだ気がします。その後もう、買いあさりました。まず、わからない言葉が多かったんですけれど、とりあえず何かありそうだという感覚があったので。それからすぐに詩を読みはじめました。やっぱりひかれるんですね。普通にあの当時の全共闘の学生や高校生たちは、吉本さんの詩を含めて、かなりの影響を受けた人がたくさんいると思うんですよ。そういう読まれ方をしてるんですよね。
吉本さんの詩に「武器を取れ」というようなのがあるじゃないですか。吉本さんが武器を取れといえば、幻想的な言葉であったとしても、僕は実際の武器を取りますよというくらいに吉本さんの影響はありましたよね。
吉本
いや、今あなたがおっしゃったね、僕が書いたね、自分で書いて表現して自分の考えを述べたり、芸術らしき詩を発表したり、それはね、それはちょっと自信があるんですよ。まだ俺は、俺の考え方の底のほうまで理解してくれた人はおらんな、っていうそういう感じがします。それは俺はちょっと自信がありますね。
表現っていうか、思考っていうか、考えっていうか、そいうものに基づく表現という、書いたものには自信があります。これは今のところ、今もこれからも、もしかするとそうかも知れませんけど、そういうことを認めてくれないまんま終わるし、時代は過ぎてゆくことになるかもしれない、そういうふうに思って書いたもの、とことん書いたものを読んでくれたら大変、あれですね、解る、解ってくれるように思いますけれども。それは今のところありませんから、半ばこれでいいやと。
編集者の人でひとり、編集して、類別して、鑑別して整理してくれている人がおりまして、それが 3 ? 4 人の人の手元にありますが。それは、なんていうか、僕だけの個人的な自信というのでいいんじゃないかな、というふうにあきらめてますけど。
あの、僕の、あれができるのは、どういったらいいでしょうか、時代を読むっていいましょうか。時代を読むっていうことはいつでも考えていないと駄目なんですよね、空白を作らないこと。いつでも考えています、何やってるときでも考えてますけど。結局僕はいちばん能率の悪い物書きで、何か書いて、読みたいやつが読んで読みたくないやつは読まない、そんなことで過ぎてきている。それだけのことですけれど。そこはもう全貌を読んだ人がひとり、編集をやってくれたんですけれど、それは、その全貌を読んでもらわないと、僕自身は物書きとしてつまんないことを書いて、ちょっぴりとお金をもらって、それの繰り返しで、それだけで、それ以上のことはないんですけれど。
前川
叛旗派の集会で講演されるじゃないですか。あの当時の、1976年の6.18の品川公会堂での三上さんの政治的集会に吉本さんが出るにあたってはどういった感覚で出てきたのか。ただ三上さんとの関係のなかで「あの人は愛嬌があるから」というところなのか、あるいは叛旗派に対してこうなってほしいというのがあって出てこられるのか、その辺のところもお聞きしたいのですが。
吉本
それは両方じゃないですか。小さく小さく両方。三上くんは愛嬌がある、それだけのことで。神津くんは愛嬌と許容力がないんだよ。だから、だから指導者的ではないんですね。むしろあの人は思想的なほうがよくやれる、これからはやれる人だと思っている。
前川
前に話した時に立花さんのことが出て、あの3人の中で立花くんの感じがいいと思うよと言っていましたが。
吉本
あれはいつごろだったかな、万博のころだと思いますね、ずいぶんちゃんとしたことを言う人だなという印象がありますけどね。深く入っていくってことは別にないんですけど、こっちが必死で物書きで、はみ出したことがないからそうなんだろうなと思いますけどね。
叛旗派っていうと今もふたつあるじゃないですか、神津くんのと三上くんたちの叛旗派が。
前川
実質的にはもうないですけど。
吉本
叛旗派っていっていいものかどうか解らないけど、ま、解体したわけですけれども。でも広告なんかを見ると、ふたつありますよね。三上くんたちのと神津くんたちのと。ああ、いまだに分かれて喧嘩しているんだな、とそういう感じで。
前川
今は喧嘩するということもなく、関係的にいうとお互いに見て見ぬふりというところでしょうかね。逆に、菅原くんみたいにその辺のところはある程度断ち切っているというグループも当然ありますけどね。
菅原
グループじゃないんですけど、グループはなにもつくってないんですけどね。たまに会ってお酒を飲む程度ですが。
吉本
要するに、より文筆的なのとより政治的なのと、こういうふうに、ふたつあるという印象がある。神津くんは物書きだから、これから頑張ればいいのに、と思うけど。だけど一度政治的なことに触れた人というのは遠慮がちなんですよね。物書きになることに対しても遠慮がちだし、政治的なほうに対しても遠慮がち、遠慮がちというのはいらないんですけどね。僕から見てるとそういう感じ、遠慮がちっていうのはいらないんだよ、いらないときなんだよっていう、現代はそういうときなんだよという、そういうこと、なんとなく遠慮がちという感じですね。三上くんたちもそうですよね、なんでそんなに遠慮するのかという感じですね。もっともっと言いたいことは言い、やりたいことはやりっていう。もっと率直に。 60年のとき僕らがいちばん影響受けた、この人は指導者だなっていう、島くんっていうのがいる。この人はものすごくやるときは潔かったですよね。もちろん共産党なんてつぶれちゃって、つぶしちゃってもかまわないからやるときはやるから。僕らに対しても何かあれはあったんでしょうけど、呼んでね、闘争なんかに参加してくれなんてことは一度も言わないんですね。むしろ参加したら面倒くせえっていう気配のほうが強くて。学生運動は、この闘争は、自分たちだけでやります。ただ、見といてという。僕の考え、感じ方では、ただ見ていてくださいっていうような、なんとなく見守って、どういうようにやるかっていうのを、どういったらいいでしょうね、「好意的に見守っておいてください」という意味合いに僕には取れましたけど。あの人はいったんそう決めて。
内部的にはいろんなことがありましたし。共産党からの妨害もひどくて、どっかへ飲みに行って、それを写真に撮られて、写真をどっかへ持っていかれて、あいつらはこういうところへ出入りしていた、なんてやられた。
前川
共産党っていうのはいつまでたってもそういう精神がありますね。
吉本
いつまでたっても直らない。あれは直らない。どうすれば直るか何度も考えてみたけど、駄目ですね。あれは直らない。病気。直らない。だから別に当てにしたこともないし、何かやったって、いいことやったって、何を書いたって、議会で言ったって、一対一で言ったって。あんなの問題にならないばかりで。まぁ現実問題としては何か協力をお願いするみたいなものはやらなきゃいけないし、しょうがないでしょうから、そんなことに隔てを置くことはないわけだと僕は思いますけれど。
前川
僕も普通に共産党系の組合と仲良くやってますよ。
吉本
それは結構なことですよ。どっかに刺激要素がないと、凍りついてそのままになりますよね。だから刺激はあったほうがいいですね。乱暴な刺激でもいいしおとなしい刺激でもいいし、どっちでもいいから刺激があったほうがいい。なけりゃどうしようもない。
だけど感心なことには、今、若い人はぞくぞくとバカなやつが、ぞくぞくと集まっていく。どうやって集めるのかね。よく集まるもんだと感心してますよ。僕はビックリします。ビックリして感心しますよ。
あの人たち、共産党の、なんていうか仲介によって変な、和解のためにっていって、宮沢賢治賞っていうのを僕にくれるっていう……。それはあの宮沢賢治研究会というのを作って、そこへ行って説得して、そういうのを仕組んだんですよ。相手の人は知らないけど、仕組んだんですよ。僕の知り合いは宮沢賢治研究会の文化面を受け持っている天沢退二郎っていう、あの人は宮沢賢治研究会のあれなんですよ。かわいそうに、あれなんだね、共産党っていうのは変な意欲はあるんですね。俺にそれをやってくれっていうから。相手の思想はどうだっていうのは関係、興味もないけど、僕の場合には宮沢賢治が子供の頃から好きなんで、天沢くんと入沢くんといって工業大学の先生してる詩人がいるんですけど、ふたりいるんですよ。あそこへ行ってやるんだって、そういうあれはないんですよ。おとなしいんですよ。ふたりともおとなしい人で。それで共産党っていうのはおさえるのはなかなかうまくおさえている。
僕はなんで花巻まで行ったかっていうと、副賞の一百万円(いっぴゃくまんえん)が欲しかったんですね。うちのは病院に、入院と退院を繰り返してますからね。今は 2 階で寝ていて、退院しているかと思うと、昔、高校時代にスポーツをやっていたから、ちょっと良くなると動くんですよ。またすぐ倒れて腰を打って、それでまた入院して入退院を繰り返しています。
花巻では向こうも仏頂づらしてるけど、俺も仏頂づらして会員には挨拶ひとつしないで、天沢くんとだけお互いに遠くで顔も見えないところで挨拶だけして、それで帰って来て一百万円貰って入院費に使っちゃいましたよ。それだけのために花巻に行きましたけどね。くれるっていうのを貰わないというのは馬鹿げたことですからね。天沢くんとだけ遠くでお互いに顔も見えないところで挨拶だけして帰ってきて、お金は使っちゃいましたけどね。 天沢さん、入沢さん、ふたりとも優秀な詩人です、「我がイズム」っていうのを書いた人ですけど。手間をかけて全集を作って、それも大変だったと思うけど、いい詩をたくさん書く。だけど、やっぱり政治勢力がかぶさってくるとおとなしくしている、っていうことはいたしかたないことで。
前川
6.18の品川公会堂の三上さんのことがありましたが、その後『試行』に吉本さんが、あの場でのいろんな情況というのは結構意味があることだと書いていらした。あのとき『試行』の中では三上を支持するとか、神津を支持するとか、どっちがということには触れていなかった。そういうことではないんですよね。
吉本
それは全然そういうことはないんです。いまでもそうです。ふたりとも来ますよ、違う日に(笑)。
前川
あの公会堂に、僕たちは叛旗派として介入したほうなんですよ、その後にそれなりにリアクションがありました。一番のリアクションはたぶん菅原くんにあったわけですよ。菅原くんがその後の叛旗派解体の中で主導的な位置にあったのは間違いない。僕はそのように見ていました。僕はあの後消耗しまして、別れた奥さんとふたりで静かにしていました。
吉本
僕が三上さんから、おしゃべりに来てくれないかと言われて行きましたが、あの人が僕に、何も言わないけどひとつだけ言ってくれたのは、なんかみんな、うちの奥さんが弁護士かなんかの試験を受けて弁護士になるっていうのが不服らしいんだ、とそのとき言ってました。民事の弁護士さんなら関係ないじゃないですか、いいじゃないですか、どういう影響があるってわけじゃないわけだしいいじゃないですかっていうおしゃべりをしましたが、それ以外は話はしませんでしたけどね。叛旗派っていうのはあれだったと思いますよ。何でもかんでもケチをつけようとすればケチをつける、そういう時期だったとおもいますけれど。
三上くんがおしゃべりをしに来てくれないかと言うから、いいですよって言って行きましたけどね。何派とか関係なく行っただけで。神津くんと対立関係にあるって、その場へ行って、えって思ったくらいでね。まぁ僕も別に被害を受けたわけではないし、ももを切られたわけでもないし、おとなしいもんで。神津くんが講演をさせまいとして止めてたみたいな、そのくらいのことで、それだけで格別なことでもないし。
前川
あのとき面白かったのが吉本さんが話しだしたら、結局みんな静かになったんですよ。叛旗のグループもみんな、吉本さんの話だから、介入はしたけどとりあえず聞こうよと、そういうことになりましたね。
菅原
ここにお邪魔をするのは26年ぶりなんですけど。
吉本
美男子ですね......、前に比べて(笑)。
菅原
あー、いえ(笑)。
僕は井の頭線の高井戸というところに住んでいるんですけれども、ここまでは近いと言えば近いんですけれども、精神的には、まるであれですね、親鸞に会いに常陸から、茨城からはるばる京都に来たような気分ですね。
今の話でいくと、僕も大学に入り、誰かに薦められて吉本さんの『自立の思想的拠点』を読み、それから出たものはほとんど読んで。ところが 6 月18日、あの、三上さんの集会のとき、僕は壇上に上がったほうなんです。その後吉本さんの書いた『情況への発言』を読んで、それでもう、自分の意識の中では一種の敗戦でした。戦争に負けたっていうか、何か解らないというか、何が起きているのか解らなかったです。ただそこからそのことについて、ひたすら考えました。いまでも考えています。それは同じことなんです、あのときと同じこと、同じパターンが、何度も反復しているんです。現在でも反復しています。
三上さんがどうかとかそんなことは僕にとっては関係ないんです。それより、自分が読んでいた人と壇上に向かい合って、まがりなりにも敵対してしまったと。それは僕にとっては大変なショックで、その後でしょうか、ここによく、千駄木でしたけれども、お邪魔して『最後の場所』っていう雑誌を書いていました。それで……。
前川
『最後の場所』というのに『都市に関するノート』という小文でしたけれども、吉本さんに寄稿していただいているんですよ。それは、彼にとっては嬉しかったと思いますよ。僕が吉本さんに「横超」という酒に字を書いていただいた以上に彼は嬉しかったを思いますよ。自分として6.18の総括を含め、左翼生活の総括を含めて再出発するのに最後の場所として選んだ雑誌だったわけですから、そこに吉本さんが書いてくれるっていうのは、彼にとっては嬉しかったんだと思いますよ。
菅原
いや、でもね、なんて言うんだろう。その、例えば僕が「吉本さんの本を読んでいます」と、お会いしたこともあるし、ということを他の人に話しますよね。全共闘のころはたくさんの人が読んだだろうけど、ところがその人たちは、もう、あとは吉本さんの本を読んでない人もたくさんいるわけですから、吉本さんに会いましたと言うと、吉本さんに書いてもらったと言うと、それが一種の棘になってくるんですね、関係としての。へぇ、それがどうしたのとか、いろんな反応がありますよね。それは逆に何だろう、これはというか、それはなんかちょっと……。
それは『新約聖書』で、イエス・キリストが自分の名前を語るとあなたはひどい目に遭うだろうという、そういうくだりががありますよね。それに似たことがね、現在でもそうですよね。そういうことっていうのはあるんですよ。だから吉本さんの思想を引き受けるというのはそうとう大変なことだと、思いましたけれど。
それで、6月18日、もう35年前になりますが、品川公会堂であのことがあって、その後、最初に書いたものをお持ちしたことがあるんですが、僕がまだ25、26歳のころですけれど、そのときに書いたのが「アジアの極東の島国の首都で、僕たちは右往左往してきたすぎない」というようなことを書いたんです。今でもそのフレーズは自分の中で残っているんですが、なんていうんですかね、醒めたんです。一気に醒めたんですよね。言ってみれば赤軍と同じようなことをやってきたわけですよね。壇上に上がって、内ゲバみたいなことをやって。それを一瞬、冷めたっていうか、鳥瞰できたっていうか。アジア、それから日本、その一都市で僕らは右往左往してきたっていう、その惨めさというか、それが一気に鳥瞰できたというか。
それは、今でも自分にとって思想的な体験だったと思うんです。吉本さんの書いた『情況への発言』を読んだことのあれですけれども。そのときにこれは大変なことだなと、根本的に日本の左翼っていうのはだめなんじゃないかっていうふうに思いましたね、そのときに。要するに、いつでもなるんですよね、連合赤軍みたいになるんですよね。いつでも、いつでも百人千人を殺めたり、そこまでスーッと、集団の場合、今でもそうですよね。その怖さっていうのはどこから来るのかっていうことを日本の左翼っていうのは、左翼だけじゃなくて日本の知識人っていうのはだれも解らない、そのことに気がついたみたいな気がしたんです。それでですね、そのことで僕は叛旗っていうのは駄目だと、一生懸命つぶしたというか、もうやめよう、みんなやめようと言って。神津さんたちはやめないで、後始末が必要だという。いまでも倫理的な後始末をやっているんだと思うんですよね。
前川
終わらないんだよ後始末が。僕なんかにいわせると後始末が終わらないなら打ち切るよという感じだけど、あの人たちは終わらないんだよ。あの人たちにはあの人たちの生き方があるんだ。実をいうと先々週かな、2年連続であの人たちの忘年会に行っているんですよ。「横超」も送ったんです。要は年月が過ぎて僕なんかが行っても別に普通にいいだろうということで、いろんな話をしてそれはそれでいいだろうということで行ったんです。確かに感覚的なところで違うんです。
菅原くんの文章というのは反語の文章といってもいいくらいで、大学に入ってすぐ気に入りましてね、なるべく近くにいようと思って近くにおったわけです。正直言って叛旗の中で一番刺激的だったのは、僕は菅原くんが一番刺激的、正直言って。
菅原
前川、それは言いすぎだよ。
吉本
あなた、いい男ですね(笑)。独身ですか ?(笑)
菅原
子どもはいますが……ひとりです(笑)。
それで……同じ叛旗派だったやつで、池尻大橋で親父さんの後をついで30年ほど鉄板焼き屋をやってるやつがいるんですが、その彼が「親鸞は人びとに、経文は読まなくていい、修行もしなくていい、ただ南無阿弥陀仏ととなえるだけでいいと言いながら、自分ではひたすら『教行信証』を書いていたというのはどういうことなんだろう」というようなことを言ったんです。僕も、それはたしかに不思議なことのように思います。大きな矛盾だと思いますが、どう考えたらいいのでしょうか。
吉本
(身を乗り出すように)それはね、死んでも解らないんですよ。おそらく、死んでも解らないんじゃないでしょうか。
そこがおもしろいと思うんですけど、親鸞は流罪を終えてから、京都に帰ってないんですよ。そこが面白いと思いますけれども。親鸞は流罪になってから越後にいたわけですね。越後に行って結婚もしてね、それから一度も京都に帰っていないんですよ、年取るまでは、一度も。だから、法然にも会っていない。
『教行信証』を見れば解りますけど、『教行信証』の最後のところに、自分がとうとう浄土宗のほんとうの信者になれなかったという。どこかっていうとひとつには、自分は妻帯するっていうか、女性との関係ということで言えば自分が最後まで浄土宗の教典がいう意味での禁欲っていうか、僧侶らしさというものを、とうとう守れなかったということ。もうひとつは他人(ひと)の先生みたいな顔、人士というか、他人(ひと)の師みたいな顔をして説くことをやめてない、このふたつが決定的で、自分がとうとう浄土教の本筋にいけなかったということ。
そういう懺悔をやってるんだけど、昔ならば法然っていう名前が出てくるんですけど、法然に対しての懺悔っていうことが出てきているんだけど、刑を終えて解放されてから一度も法然の名前が出てこないです。それから懺悔も法然を媒介にして懺悔するということが出てこない。先生づらすることとそれから妻帯するってことは最後まで収まりがつかなかった、やめていないし、やめられなかった。
それはいわゆるお経で言うと浄土宗のあるいは浄土教の本筋からそれだけでも、言ってみれば反則である。自分は言ってみれば反則したままであると。懺悔は、前はいつでも師匠がいて師匠を仲介にして懺悔するっていう、そういう懺悔を、前にもしている、新潟にいたときでもしているわけですけれども、いつでも法然を媒介にして懺悔するっていう。ところが最後、『教行信証』では法然は出てこないですよ。
釈放されて千葉の房総にただ一人そっちへ直接行っちゃうんですけど、そこへ行く際に一カ所だけ立ち寄ったところがあるんです。浄土教のお坊さんたちは、それはそこに三体の阿弥陀仏の塑像があるからそれを拝みに行っているんだと言っているんですが、それは僕はそんなことはないと思うんですよ。善光寺平に善光寺がありますが。あそこは独立宗教、つまり無宗教、無党派宗教だから立ち寄ったんだと僕は思うんですね。僕はそう理解したんです。善光寺だけは寄って少し長く、数日泊まってますね。それでそのまんま、その後千葉県の房総に行っちゃうんです。房総っていうのは要するに関東の史的集合地から少し外れたところですね。それは常陸風土記を見れば解りますけれどね。それであの人はもう法然も頭になくなっちゃうし、他の人もなくなっちゃうし。自分自身、懺悔するために、先生というのはやめられなかったということですね。
それからいろんなことを言われてますけど、念仏も一念って言って一回やればたくさんなんだって言ったっていわれてますけど。そこは僕は知りませんけど、法然がそういう手紙を出してますね。親鸞に宛ててるわけじゃないけれど、越後庄に集まった人たちに宛てている。お前たちは、勝手に一念、南無阿弥陀仏で一生に一度でいいんだとか、無念義って言ってそんなものはいらないんだって言ったりしているけど、直接自分が行って膝を交えて説きたいけれど、それは間違いだって『一念義停止起請文』っていうのを書いてますけど。いい文章ですけど。もう親鸞のほうは、そんなこと問題にしないって、ただ自分に懺悔するだけって言ったんですけど。
どうしても先生づらして千葉県の民衆に説くことと、妻帯して女性と関係することだけはやめられなかった。そのふたつで浄土宗を失格しているという懺悔を、法然に対してだけじゃなく、誰にともなく懺悔をしている。そのために俺は正定聚にどうしてもなれなかったっていう。
僕は最後のところがよく解らなくって、去年か一昨年、やっと、一昨年くらいに自分なりの解釈を『太陽』っていう平凡社から出ているものの中に書いている。要するに浄土の真宗と親鸞が言っているものは、自分が宗教でもって民衆に近づこうっていうふうに試みてきたけれど、とうとう最後まで近づけないで残った。親鸞は最後まで近づけないで残っている、その残っているというところが浄土の真宗だ、というふうに親鸞は考えているというふうに僕は………。もう時間がないし、何に対して時間がないかというのは曰く言い難いんですけど、これが親鸞の最後の結論であるというふうにして、僕は『太陽』に書いているんですけど。
僕は、これで親鸞の結論はこうだったっていうふうにしちゃえっていう、自分を急かせるものがあってそういうふうに解釈したのですが、それが最後だっていう、意味があると思うんですね。
そこがあれなんですね、どうしても最後に民衆に同化っていう、同一化っていうのがとうとうできなかったっていうのが最後の親鸞なんです。
前川
僕も正定聚というのは解っているつもりなんですが......。
(吉本さんは前川の正定聚と云ったのを曹洞宗と聞きまちがえたようだ)
吉本
……隣のお寺は曹洞宗なんですよ。前の和尚が年で亡くなったんです。
前川
隣のお寺とはつきあいあるんですか。
吉本
つきあいはないっていうか、つきあわないっていうか(笑)。 和尚が代わったらなおさら綺麗になっちゃって(笑)。
前川
吉本さん、時間がそうとうオーバーしちゃってるんですけど、最後に菅原くんのほうからなにかあれば。
吉本
いやいや、どうぞどうぞ(笑)。
菅原
横超とか、還りがけとか、正定聚とか、非知に向かうとか、解ったつもりになるんですよね。あるとき甘露が落ちてきたように、ああ、こういうかと。でも次の日には、もう解らないんです。ついつい安易な方向に行って、酒場に行って焼き鳥屋に行って………深酒して、しばらくしてまた夜寝る前に蘇って、還りがけというのはこういうことかと解ったつもりになるんです。その繰り返しなんですね。例えば、苦しいですよね、いろいろな権力とか、仕事がリストラされそうとか、嫉妬とか羨望とか、コンプレックスとか、いろいろと苦しいときに、横超という言葉が自分の中にふと浮かんで、その意味が解ったときに楽になるというか、これはすごいと思うんですけど、結局翌日になると嫉妬や羨望などいろいろなことにまみれて苦しんでしまう。その連続なんですけれどね。
横超といったときに相当いろんなことをのみ込んでいる、易行道とか悪人正機といったときに、思想のかたまりをのみ込んでいる、そういうことがあると思うけれど、また楽なほうへ行ってしまう。悪を造る、つまり造悪という方向に楽ですからいってしまう。自分ではそれを繰り返しているという気がするんですが。
吉本
それでいいんじゃないでしょうかね。というのはそこで、そこでなら自分を許して、自由にしていいんだという、そういう限界を、凡人の限界といえばその通りで、そこのところをまた繰り返し同じ問題が頭に来て、考えを進めるんだけどまたそんなになっちゃうっていうところ、いいんじゃないか、いいかどうか解らないけど、僕はそれでいいと思うんですよね。
菅原
読んだ本っていうのは、難しいことは忘れるんですが、その中に出てくることで自分の中で何度も引っかかることは繰り返し繰り返し自分の中に入ってくる。
段階論っていうのがありますね。空間的にはヨーロッパとアジアとアフリカという地域に分けられるんですが、それを時間に、歴史的な段階におきかえられるっていう段階論が……。
1976年の6.18の後ですけど、僕は、極東アジアの首都の片隅で右往左往していたにすぎないというふうに自分を俯瞰したときに、その段階論が、アジアということが、僕の中にすっと入ってきたことがあるんですけれど、吉本さんの本にも何度も繰り返しこの段階論というのが出てくると思うんですが、それはとても難しい概念ですよね。
アメリカとイラクの戦争のときにも、この前の『ひとり』っていう本にも出てきましたよね。そういうふうにも考えられるんだって、ああ解ったって思っても………すぐに解らなくなる。難しい概念ですよね。
吉本
難しいですね。あのー、僕がどうやって本を書くかっていうと、ん~、なんでもいいんですけどね。よく、僕はね、僕は美空ひばりっていうのが好きだったんですよ。美空ひばりの最後の舞台っていうのがあるんですよ。それが平たい舞台の上に階段みたいな、またもうひとつ階段みたいなものが置いてあって。彼女はたぶん足腰が利かなくなっているんだと思うんですけど。そのいくつかある階段に腰を下ろして足が観客から見えないように長いスカートがあるでしょ、あれをはいて、足先以外は隠れるようにして、階段に腰掛けて、たぶん終わるまで立っていられなかった、舞台が終わるまで立っていられなかったんだと思いますけれども、そういう姿勢で歌ったんですよ。
それをテレビで見ていまして、はー、こういうのが芸術家っていうやつだなって思った。
イメージで助けてもらえますね、あなたの問題は。繰り返し繰り返しっていうのは、イメージでいいんですね。誰かのイメージでもなんでもいいんですけど、これだなっていう何か、感情を獲得するようにして。よけているっていうか、問題の難所をよけている、かわしているって言いましょうかね、そんな気が自分でしますけど。イメージに直してしまえばそこの問題は解決するんじゃないかなと思います。
人間の感覚っていうのは他人(ひと)が言うほどそんな簡単じゃない。目だって、見たら見えたってそんなもんじゃないって思ってますけど。それは、なんか人間の感覚の生涯の範囲っていうのを決めていくっていう、だからそこで僕はイメージで、感覚で見えるんだっていう、そういう感じをもちますけどね。
ちっともあなたのおっしゃることに答えられていないし、そんな資格もないと思いますけれど。最後のあれは本当にそういう格好で……。